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江藤淳と少女フェミニズム的戦後―サブカルチャー文学論序章

江藤淳と少女フェミニズム的戦後―サブカルチャー文学論序章
江藤淳と少女フェミニズム的戦後―サブカルチャー文学論序章 大塚 英志

筑摩書房 2001-11
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文学批評の視点で、明治は文学と近代化以降(夏目漱石とか)、と習います。文学は、江戸から明治へ激変を遂げた、近代化と格闘しました。

本書は戦後は文学とアメリカで、当時の文筆家のフロントランナーは流入するアメリカの文物と格闘し、この視点の元祖は江藤淳先生です。

1990年代頃から出てきた、J文学(死語)以前の前史です。


江藤淳村上龍を黙殺し、1970年代の限りなく透明に近いブルーを、米軍駐屯地のサブカルチャーにすぎないと批判します。

比べて1980年代の田中康夫の、なんとなく、クリスタルは、舶来ブランドものの氾濫というサブカルチャーを書きながら、メインカルチャーからそれを風刺する、と評価します。

リューが基地で乱交しているのは、局地的なその現象そのものではなく、日本の混合文化や、アメリカの核の下に成り立つ産業構造の、比喩なのではないか。

 


例えば江藤や大塚は、私人と歴史との軋轢から生まれるものを文学とします。

最近のゆゆしき風潮として、そういうことなしに一足飛びに改憲したり、教科書をつくりかえたりするのは駄目とか、政治が混じり微苦笑です。

文学と9条の話が、一緒くたになっている辺り、ある意味、永遠のゼロで泣いて鼻水たらす右翼と、同じ穴のムジナで、文学を政治で汚すことに違いありません

が、文学は時代と寝る、そもそもそういうものなんだ、というのが彼のスタンスです。

ストーリーを利用するファシズムに対抗して、左からの、ボトムアップファシズムしていますが、その先をどこへ持っていくかは、個人に任せる姿勢なのか。

 

あらゆる文学は時代と寝ている、しかしそうではないという笙野頼子などの批判もあるけれど。

大塚にクレームをつけた飯野頼子は、男目線で少女を売り物にするなと怒ったのかもしれないですが、

文学も、文字上に載せることができる数少ない情報として、性差を喚起してイメージ利用します。

写真と同じで性差は際立ち、自分から女性性を売りにする女流作家はひきもきらず、本を隔てて対峙している限り、性差の幻想は埋まりません。

性差は、直接話をしたり一緒に仕事をしたりしないと、男も女も同じ人間と言うことが分からず、なかなか解消しません。

 

江藤、大塚は、2人とも自称フェミニストだそうですが、ただ女性(確信犯的に売りにする熟女、オバサン)と、少女は違い、彼らの掲げるのは少女です。

もしかして大人の女性=女流作家などとは真っ向から対立したりするのか、誰かフェミニズム文学マップでも書いてください。

同じ左翼の上野千鶴子は、少女からオバサンを抜かしておばあさんに進化した人です。が、女性を差別しない法律などを整えるべきだという、マルクス主義者だから、話がかみ合わないのか。

上野千鶴子がカリスマになったのは、スター性と理論性もさることながら、少女とおばあさんという、人から嫉妬されないクラスタに自分を置いたこともあると思います。

彼女は働く女性の権利を主張しましたが、大人の女性のように、性差を確信犯的に利用して男性を搾取するテクニックを避けてきました。それが本書の描く少女フェミニズムです。自分の性を忌諱し、もしくは受動し、怯える女性です。

元々漫画畑の大塚さんは、難しい評論を放棄し、一段下へ降りて語り、漫画、文学読者と両方取ろうとしています。


文学がアメリカと格闘するのは、新興国を中心とする世界中の潮流で、オリジナリティは無くなってきました。

J文学(死語)とやらは、そのフェーズは過ぎています。

そういう意味では、近代化との格闘、アメリカとの格闘、フェミニズムと少女について、など世界へ通じる論点です。

あと海外では、ある意味アコギな大人の女性が多く、少女というのは、経済的保護下に生じる、特殊カテゴリだと思います。